舞踏の鬼才・麿赤兒の軌跡と怪演!表現の深淵に迫る決定版解剖
麿 赤 兒という名前を耳にした瞬間、脳裏に焼き付くのは剃り上げられた頭部、全身を覆う白塗り、そして眼窩の奥から放たれる射抜くような眼光だ。傘寿を越えてなお、その肉体は衰えを知らないどころか、削ぎ落とされた骨組みそのものが異様な神々しさを放っている。世界各国のフェスティバルで喝采を浴び、映画のスクリーンに数秒現れるだけで劇場の空気を一変させてしまう男。日本が生んだ最も過激で、最も美しい表現者の熱量は、今もなお臨界点を超え続けている。
前衛と大衆、アングラとハリウッド。普通ならば決して交わらないはずの両極を、麿 赤 兒は驚くべき軽やかさで行き来してきた。見る者を圧倒するその存在感は、単なる奇抜さから生まれたものではない。戦後日本の混沌を全身で受け止め、自らの血肉を極限まで絞り尽くすことで獲得した、唯一無二の肉体哲学がそこにある。
舞踏界の巨匠・麿赤兒の表現者としての軌跡と最新動向を徹底解剖
舞踏手、俳優、演出家――彼を形容する肩書は数多いが、どの枠組みにも収まりきらないのが麿赤兒という表現体の本質だ。半世紀以上にわたり、身体ひとつで世界の劇場を揺るがし、映像の世界では強烈無比な怪演で観客を陶酔させてきた。近年もその創作意欲は留まる気配がなく、肉体の限界を更新するような舞台演出から、映画やドラマでの重厚な演技まで、現役の表現者として最前線を疾走している。
時代がデジタル化へと大きく舵を切り、映像や身体表現が均質化するなかで、麿が体現する「剥き出しの人間」に対する渇望はむしろ世界中で高まっている。生身の人間が持つグロテスクさと崇高さ、生と死のあわいを舞台上に立ち現れさせるその手腕は、舞踏ファンのみならず若い世代のクリエイターたちをも強烈に惹きつけてやまない。
土方巽との遭遇と「暗黒舞踏」の夜明け――状況劇場から始まった身体の反逆
麿赤兒の表現の根底には、1960年代のアングラ演劇ブームがある。唐十郎率いる「状況劇場」に参画し、紅テントの熱狂の中で役者としての頭角を現した。だが、言葉による演劇表現の限界を感じていた若き日の麿に、決定的な転機が訪れる。それが「暗黒舞踏」の創始者・土方巽との出会いだった。
西洋の美意識や身体技法を模倣するのではなく、農民の蟹股や曲がった背骨など、泥臭く抑圧された日本人の身体性そのものを芸術へと昇華させる土方の思想に、麿は激しく共鳴した。言葉を奪われ、沈黙の中で肉体そのものを歪ませ、痙攣させる暗黒舞踏の現場は、既成概念を徹底的に破壊する実験場だった。この濃密な叛逆の精神こそが、のちの麿赤兒の骨格を決定づけることとなる。
「大駱駝艦」の旗揚げと天賦典騎――肉体を金粉と白塗りに捧げた半世紀
1972年、麿赤兒は自らの舞踏集団「大駱駝艦」を旗揚げする。掲げた理念は「天賦典騎(てんぷてんき)」。この世に生まれ落ちたこと自体を大いなる肯定と捉え、身振り手振りのすべてを祝祭として踊るという思想だ。白塗りにスキンヘッド、時には全身に金粉を纏った群舞が舞台を埋め尽くす光景は、国内外の舞台芸術界に巨大な衝撃をもたらした。
吉祥寺の稽古場「壺中天」を拠点に生み出されるスペクタクルは、フランスやアメリカをはじめとする世界各地で熱狂的に迎え入れられた。「Butoh」という言葉を世界共通の芸術言語へと押し上げた立役者は、間違いなく大駱駝艦であり、その艦長である麿赤兒だ。肉体を極限まで客体化し、物質として空間に投げ出すその手法は、今なおコンテンポラリーダンス界に多大な影響を与え続けている。
ハリウッドからお茶の間まで震撼させた怪演――『キル・ビル』から『翔んで埼玉』へ
麿赤兒のもう一つの顔、それは日本映画界およびテレビドラマ界に欠かせない唯一無二の「怪優」としての姿だ。クエンティン・タランティーノ監督に見出され、世界的ヒットを記録した映画『キル・ビル Vol.1』でのヤクザの首領役は、短い登場時間でありながら圧倒的な冷徹さと様式美で世界中の映画ファンを震撼させた。
一方で、コメディや大衆娯楽作品における振り切った演技も見逃せない。ドラマ『ルパンの娘』で見せた伝説の鍵師にして剽軽な祖父役や、映画『翔んで埼玉』での強烈なインパクトを放つキャラクターなど、シリアスとコミカルの境界を自在に飛び越える。舞踏で鍛え上げられた緩急自在の身のこなしと、声の抑揚ひとつで劇場の空気を支配する演技力は、娯楽作の屋台骨を支える確固たる力となっている。
大森立嗣と大森南朋――表現者の血を受け継ぐ息子たちとの共鳴
麿赤兒を語るうえで、その類まれなる表現者の血筋にも触れないわけにはいかない。長男の大森立嗣は、『日日是好日』や『MOTHER マザー』など人間の深淵を鋭く切り取る気鋭の映画監督として日本映画界を牽引。次男の大森南朋は、卓越した演技力と独自の存在感でスクリーンを彩るトップ俳優として活躍している。
彼ら親子は単なる家族関係にとどまらず、互いに表現者として深い敬意を払う共犯関係にある。息子のメガホンのもとで父が演じ、同じ画面の中で兄弟や親子が火花を散らす。血のつながりを超えた表現者同士のリスペクトが、作品に類を見ない厚みと緊張感をもたらしている。
Netflix時代と世界が再評価する唯一無二の肉体言語
配信プラットフォームの普及により、国境の壁が崩壊した現在、麿赤兒の過去作から近年の出演作に至るまで、世界的な再評価の波が押し寄せている。Netflixをはじめとするストリーミングサービスで日本の前衛的なコンテンツやカルト映画にアクセスしやすくなったことで、海を越えた若い世代が麿の異形のカリスマ性に熱狂しているのだ。
CGやデジタルエフェクトがどれほど進化しようとも、歳月を刻んだ本物の肉体が放つ凄み、皮膚のたるみや骨の軋みそのものが物語る圧倒的なリアリティを代替することはできない。全身全霊で時代を挑発し、舞台とスクリーンの両輪で人間の生を肯定し続ける麿赤兒。その眼差しは、常に表現の未踏の地を見据えている。 (出典: 麿 赤 兒(Yahoo!ニュース))